曹操様と郭嘉様

おはようございます、こんにちは、こんばんは。またまた来ました景操軒です。今日は前回の予告通り、曹操様と郭嘉様について稚拙ながら語らせていただきます。


郭嘉様の出生の詳細は不明でありますが、彼は人との関わりを固より避けていたようで、知る人ぞ知る隠れた傑物だったようです。荀紣さんや程碰殿は知っていたかもしれませんが、誰と交際をしていたかという点についてもあまり分かっていません。


ただ、彼は性格に難のある男でしたので、交際は才ある者、郭嘉様が友人と認めた人物としか付き合いはありませんでした。彼が曹操様と初めて出会うのは196年のこと。その前年だったと思いますが、曹操様の最大のブレーンだった戯志才という才人が早世してしまい、曹操様が「策略の相談相手が居なくなった、誰か後任に就けるような人物は居ないか」と荀紣さんに相談したところ、荀紣さんが郭嘉様を紹介したことで初めて出会います。

郭嘉様は、かつて袁紹の元を訪れたことがありました。そこで袁紹と直接語って人柄を見極めようとしますが、彼の態度に袁紹がキレ、郭嘉様はそのまま袁紹配下の田豊さんらに散々袁紹の悪口を言い残して去っていったことがありました。そのこともあり、荀紣はこの人物なら間違いないと言って紹介しました。

そして出会ったその夜、二人は「天下」を語ります。「天下とはどうあるべきか」「天下に必要なものは何か」・・・。そんなことを語り合ううち、二人はすっかり意気投合、郭嘉様を後任にし、曹操様の新たな策略の相談相手として就任します。ちなみに、曹操様は以来、戦に当たっての軍議の際、必ず郭嘉様を隣に置いて、彼の言葉に従いました。二人の関係性はそれこそ「水と魚」の関係でした。

呂布との決戦や官渡での袁紹との決戦に於いて大いに貢献し、袁家討伐の際も曹操様のブレーンとして隣で采配を振るいました。しかし、儚い天命が二人の運命を狂わせます。


北方異民族の烏丸の元へ逃走した袁家の者たち。曹操様は追うかどうか迷いを見せますが、郭嘉様がそれを許しませんでした。彼は郭嘉様の言葉を受けて袁家追撃に乗り出しました。


しかし、郭嘉様はその地で流行病を患い、袁家は無事滅亡へと追い込むことが出来ましたが、郭嘉様は許都へ帰る途上、柳城という場所で療養を試みますが、その甲斐も虚しく、郭嘉様は37年の短い生涯を終えました。


郭嘉様が病床に伏している間、曹操様は自分が行けない代わりに重臣達を毎日見舞いに行かせて様子を見させました。また、病状が悪化すると、祈祷師を呼んでお祓いをさせたり、出来ることは何もかもやりました。しかし、その努力も虚しく、郭嘉様は先立ってしまいます。


曹操様は郭嘉様の死後、荀紣さんに次のように仰っています。

「彼はかつて、何度も荊州の討伐を奨めてきたことがあったが、その頃は流行病に悩まされていたため私は断った。しかし彼は、自分は流行病を患って死ぬでしょうが、今荊州をとらねば天下は無い、そう言ったのだ。彼は私やお前たちよりもはるかに若かった。私は次代を奉孝に託そうと思っていたのに彼は先立ってしまった。」そう言って郭嘉様の忠義心とその才を深く惜しんだといいます。

そして、郭嘉様の死の翌年、誰もが知っているあの赤壁の戦いで大敗した際、彼は「哀しいかな奉孝、惜しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝」といってその死を改めて嘆き、「郭嘉が生きていたならば赤壁の戦いは勝っていたであろう」と言わしめたのです。


曹操様は郭嘉様の才を愛して已まなかったのです。郭嘉様は相当な不良軍師として有名で、真面目で忠実な武官の者たちや、同じく仕事に真面目な文官たちとは殊に仲が悪かったそうで、その中でも陳羣とは犬猿の仲でした。


といった感じで、曹操様と郭嘉様についてはまだまだ語り足りませんが、本日はこの辺で失礼させていただきます。