李典についての訂正です。

先日、李典さんについての記事を書かせていただきましたが、コメントのご指摘を受けまして少し訂正を失礼します。

李典さんの曹操軍参入につきまして、私は「楽進と一緒に旗揚げ当時から仕えている」旨を書かせていただきましたが、正史自体にはその明記はありませんでした。つまり、これは演義の創作ということです。大変失礼いたしました。


ただ、多くの主君の場合、旗揚げは黄巾の乱ではなく「董卓討伐」です。楽進は確実に正史でも旗揚げの当時から仕えていました。こちらは確認済みです。

ただ、李典さんについては、以下にも原文(漢籍電子文献より引用)を載せますが、叔父の李乾、その子の李整についての記事がはじめに来ていて、その後、官渡に至って漸く李典さんが物資補給などの後援部隊を率いるという記事が出てきます。いつ参入したかについては明記がありませんでした。


明日、明後日と、以後は少し原文史料を載せつつ書いていこうと思います。尚、引用元は全て漢籍電子文献よりの引用でありますので、以後は記載を省略させていただきます。


改めて、この場で訂正、及びお詫びをさせていただきます。コメントにてご指摘くださった方、誠にありがとうございました。しかし、ホントそうなるといつから居るのでしょうかね・・・。ただ、旗揚げからという演義の考えもあながち間違ってはいない気がしますけど真実は闇の中です。他の将の列伝にちらっと書いてあったり・・・なんてことはないのでしょうかねぇ・・・(笑)


今確認した限りでは李典さんの参入について書いてあるものはないけど・・・誰かと一緒に・・・とかって話になったらどこかに書いてあるかもしれないですね・・・。私もさすがにまだ一部の武将列伝しか確認していないので何とも言い難いところではありますが、もう少し時間に余裕があれば少しずつ見ていきたいと思います。

以上、本日の記事でした。以下は先程も言った通り、李典さんの正史の原文を載せておきます。皆さんの参考になればと思います。



李典字曼成,山陽鉅野人也。典從父乾,有雄氣,合賓客數千家在乘氏。初平中,以眾 隨太祖,破黃巾於壽張,又從擊袁術,征徐州。呂布之亂,太祖遣乾還乘氏,慰勞諸縣。布 別駕薛蘭、治中李封招乾,欲俱叛,乾不聽,遂殺乾。太祖使乾子整將乾兵,與諸將擊蘭、 封。蘭、封破,從平兗州諸縣有功,稍遷青州刺史。整卒,典徙潁陰令,為中郎將,將整 軍,遷離狐太守。

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時太祖與袁紹相拒官渡,典率宗族及部曲輸穀帛供軍。紹破,以典為裨將軍,屯安民。 太祖擊譚、尚於黎陽,使典與程碰等以船運軍糧。會尚遣魏郡太守高蕃將兵屯河上,絕水 道,太祖敕典、碰:「若船不得過,下從陸道。」典與諸將議曰:「蕃軍少甲而恃水,有懈怠之 心,擊之必克。軍不內御;苟利國家,專之可也,宜亟擊之。」碰亦以為然。遂北渡河,攻

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蕃,破之,水道得通。劉表使劉備北侵,至葉,太祖遣典從夏侯惇拒之。備一旦燒屯去,惇 率諸軍追擊之,典曰:「賊無故退,疑必有伏。南道狹窄,草木深,不可追也。」惇不聽,與于 禁追之,典留守。惇等果入賊伏裏,戰不利,典往救,備望見救至,乃散退。從圍鄴,鄴定, 與樂進圍高幹於壺關,擊管承於長廣,皆破之。遷捕虜將軍,封都亭侯。典宗族部曲三千 餘家,居乘氏,自請願徙詣魏郡。太祖笑曰:「卿欲慕耿純邪?」典謝曰:「典駑怯功微,而爵 寵過厚,誠宜舉宗陳力;加以征伐未息,宜實郊遂之內,以制四方,非慕純也。」遂徙部曲 宗族萬三千餘口居鄴。太祖嘉之,遷破虜將軍。與張遼、樂進屯合肥,孫權率眾圍之,遼欲 奉教出戰。進、典、遼皆素不睦,遼恐其不從,典慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾可 以私憾而忘公義乎!」乃率眾與遼破走權。筯邑百戶,并前三百戶。

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典好學問,貴儒雅,不與諸將爭功。敬賢士大夫,恂恂若不及,軍中稱其長者。年三十 六薨,子禎嗣。文帝踐阼,追念合肥之功,筯禎邑百戶,賜典一子爵關內侯,邑百戶;諡典 曰愍侯。