朱然って実はすごい人・・・?

以前、朱子学に於いても人柄の模範とすべしとして名を挙げられていた朱然について今回も取り上げていこうかと思います。

私の中では正直朱然ってスゲーマニアックなイメージだったんだけど、本場の人たちにとってはそうでもないのかなってのが何だかすごく思われるような話をいくつも聞きます。


例えば、朱子学では以前も言ったと思いますが、「彼のように日々常に戦場に居るような緊張感をもっていれば自然と敬になる」みたいなことを言うほど朱子から絶賛され、彼の墓だけは今でも当時のまま残っているという話も聞きます。


それだけでも愛されてる感半端ないけど、一体どうしてそんなに朱然が愛されているのかは少し分からないのもまた事実・・・。正史の文を読めば分かるのかな?


というわけで、今回は朱然の伝をババっと載せちゃいます。私も全文は読んでないので内容については何とも言えません(笑)


ただ、研究のし甲斐はありそうな気がします。っていうか、その前に官職の方もしっかり覚えろって話ですけど(笑)

官職とかの話はどうも苦手なんですよね・・・。覚えられない、記憶力無さ過ぎて泣けてきます。



まぁそんな話はどうでも良くて、今日は朱然伝を載せますので、暇があれば私と同じくまだちゃんと読んでないとかっていう方は是非読んでみると良いかもしれません。


朱然字義封,治姊子也,本姓施氏。初治未有子,然年十三,乃啟策乞以為嗣。策命丹 楊郡以羊酒召然,然到吳,策優以禮賀。

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然嘗與權同學書,結恩愛。至權統事,以然為餘姚長,時年十九。後遷山陰令,加折衝 校尉,督五縣。權奇其能,分丹楊為臨川郡,然為太守,授兵二千人。會山賊盛起,然平 討,旬月而定。曹公出濡須,然備大塢及三關屯,拜偏將軍。建安二十四年,從討關羽,別

1306

潘璋到臨沮禽羽,遷昭武將軍,封西安鄉侯。

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虎威將軍呂蒙病篤,權問曰:「卿如不起,誰可代者?」蒙對曰:「朱然膽守有餘,愚以 為可任。」蒙卒,權假然節,鎮江陵。黃武元年,劉備舉兵攻宜都,然督五千人與陸遜并力 拒備。然別攻破備前鋒,斷其後道,備遂破走。拜征北將軍,封永安侯。

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魏遣曹真、夏侯尚、張郃等攻江陵,魏文帝自住宛,為其勢援,連屯圍城。權遣將軍孫 盛督萬人備州上,立圍塢,為然外救。郃渡兵攻盛,盛不能拒,即時卻退,郃據州上圍守,然 中外斷絕。權遣潘璋、楊粲等解〔圍〕而圍不解。時然城中兵多腫病,堪戰者裁五千人。真 等起土山,鑿地道,立樓櫓,臨城弓矢雨注,將士皆失色,然晏如而無恐意,方窅吏士,伺輭 隙攻破兩屯。魏攻圍然凡六月日,未退。江陵令姚泰領兵備城北門,見外兵盛,城中人少, 穀食欲盡,因與敵交通,謀為內應。垂發,事覺,然治戮泰。尚等不能克,乃徹攻退還。由 是然名震於敵國,改封當陽侯。

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六年,權自率眾攻石陽,及至旋師,潘璋斷後。夜出錯亂,敵追擊璋,璋不能禁。然即 還住拒敵,使前船得引極遠,徐乃後發。黃龍元年,拜車騎將軍、右護軍,領兗州牧。頃之, 以兗州在蜀分,解牧職。

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1307

嘉禾三年,權與蜀克期大舉,權自向新城,然與全蒴各受斧鉞,為左右督。會吏士疾 病,故未攻而退。

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赤烏五年,征柤中,魏將蒲忠、胡質各將數千人,忠要遮險隘,圖斷然後,質為忠繼 援。時然所督兵將先四出,聞問不暇收合,便將帳下見兵八百人逆掩。忠戰不利,質等皆 退。九年,復征柤中,魏將李興等聞然深入,率步騎六千斷然後道,然夜出逆之,軍以勝 反。先是,歸義馬茂懷姦,覺誅,權深忿之。然臨行上疏曰:「馬茂小子,敢負恩養。臣今奉 天威,事蒙克捷,欲令所獲,震耀遠近,方舟塞江,使足可觀,以解上下之忿。惟陛下識臣先 言,責臣後效。」權時抑表不出。然既獻捷,羣臣上賀,權乃舉酒作樂,而出然表曰:「此家 前初有表,孤以為難必,今果如其言,可謂明於見事也。」遣使拜然為左大司馬、右軍師。

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然長不盈七尺,氣候分明,內行脩虜,其所文采,惟施軍器,餘皆質素。終日欽欽,常在

1308

戰場,臨急膽定,尤過絕人,雖世無事,每朝夕嚴鼓,兵在營者,咸行裝就隊,以此玩敵,使不 知所備,故出輒有功。諸葛瑾子融、步騭子協,雖各襲任,權特復使然總為大督。又陸遜亦 (本) 〔卒〕,功臣名將存者惟然,莫與比隆。寢疾二年,後漸筯篤,權晝為減膳,夜為不寐,中 使醫藥口食之物,相望於道。然每遣使表疾病消息,權輒召見,口自問訊,入賜酒食,出送 布帛。自創業功臣疾病,權意之所鍾,呂蒙、淩統最重,然其次矣。年六十八,赤烏十二年 卒,權素服舉哀,為之感慟。子績嗣。

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績字公緒,以父任為郎,後拜建忠都尉。叔父才卒,績領其兵,隨太常潘濬討五溪,以 膽力稱。遷偏將軍營下督,領盜賊事,持法不傾。魯王霸注意交績,嘗至其廨,就之坐,欲與 結好,績下地住立,辭而不當。然卒,績襲業,拜平魏將軍,樂鄉督。明年,魏征南將軍王昶 率眾攻江陵城,不克而退。績與奮威將軍諸葛融書曰:「昶遠來疲困,馬無所食,力屈而走, 此天助也。今追之力少,可引兵相繼,吾欲破之於前,足下乘之於後,豈一人之功哉,宜同 斷金之義。」融答許績。績便引兵及昶於紀南,紀南去城三十里,績先戰勝而融不進,績後 失利。權深嘉績,盛責怒融,融兄大將軍恪貴重,故融得不廢。初績與恪、融不平,及此事 變,為隙益甚。建興元年,遷鎮東將軍。二年春,恪向新城,要績并力,而留置半州,使融兼 其任。冬,恪、融被害,績復還樂鄉,假節。太平二年,拜驃騎將軍。孫綝秉政,大臣疑貳,績

1309

恐吳必擾亂,而中國乘釁,乃密書結蜀,使為并兼之慮。蜀遣右將軍閻宇將兵五千,筯白帝 守,以須績之後命。永安初,遷上大將軍、都護督,自巴丘上迄西陵。元興元年,就拜左大 司馬。初,然為治行喪竟,乞復本姓,權不許,績以五鳳中表還為施氏,建衡二年卒。


というわけで、私も暇があれば少しずつ読んでみようかな・・・。その前にやってる暇あるかな?まぁ作ればいいだけの話ですからね。しれよりも『曹操集』を早いとこ読んじゃわないとな・・・(笑)