演義の中の于禁

私が今特に気になっている武将の一人である于禁さん。正史では元々鮑信の部下でしたが、鮑信の死後、兵を引き連れてそのまま曹操様の元へ馳せ参じ、以後様々な場面で活躍してい魏の五将軍の一人として数えられる武将です。彼は法に対して専ら手厳しく、普段から厳正さを失わなかったために周囲からはだいぶ恐れられていたようです。

彼はいわば酷吏としてもよく知られますが、何も税金を搾り取るとかそういうことをしていたが故の称号ではありません。このブログの最初の記事でも紹介した通り、酷吏は主君、及び法への絶対服従を外さない官吏の別称的なものであり、彼の場合はまさにそれを以て酷吏と言われていたようです。


彼には酷吏と呼ばれる所以ともいえるこんな話があります。ある時、于禁さんが官吏を務める地域で犯罪が起こり、その罰則の施行は当然于禁さんに委ねられます。于禁さんは迷わず処刑を言い渡します。しかし、これは法に則れば当然のこと。ここからが問題なんですが、彼が処刑を言い渡した相手は于禁さんと同郷。同郷はある意味特別な存在であるのは当時の当り前の価値観だったようで、同郷の誼で・・・なんてこともよくある話です。

現に、犯罪を犯した者も同郷の誼で・・・と言って命乞いをしたようですが、于禁さんは全く聞き入れる耳を持たず、刑を執行したことを受けて周囲からは勿論、曹操様ですら彼の行為を恐れたと言うほどですからよっぽどですね。


そして話は大きく戻って演義についてなんですが、官渡の戦いまでの中での于禁さんについて。
?鮑信の部下だったことに関して触れられていない。(鮑信の死後、兵を引き連れて参入したという記述)
?主立った登場場面があるのは宛城の戦いのみ。(謀反を疑われた事件(笑))他、主要な戦いには基本的に参加している。(軍を引き連れたなどの記述のみ)
?どちらかというと文官的要素が強い。(この辺りについては正史もあまり変わらない)

ただし、?に関しては失策を提言するという辱めを受けている時と、正策を提言する2つの場面が取り上げられる。

今のところ、于禁さんの扱いについては、少し性格的な部分に関するエピソードが一つ(?)取り上げられている程度です。やはり演義の中ではサブ中のサブとも言うべき人物なのかもしれませんが、これからに少し期待です。

演義の描き方が于禁さんのイメージ定着に影響しているのだとしたら、何かのヒントがやはり本文に隠れていることをまずは想定します。フラグがないか、もう少し精密に讀みこまないと本当は駄目なんですが、まぁそのような余裕もないので少し急ぎ足で読んでます。

また2巻を読み終えたらこのような形でブログにアップすると思いますが、あくまで私の個人的見解なので私の言うことが正しいということは絶対にありえません。ただ、私は自分が正しいと思う解釈を以て于禁さんに関する事項を考察していくつもりではありますが。